円空について知ろう。

円空という人

円空は、1632(寛永9)年、美濃の国に生まれた。

 

生誕の地は現在の岐阜県羽島市とも郡上市美並町ともいわれている。

 

一説によれば、転機は19歳の時、長良川の洪水で母を失ったこととされる。

 

江戸時代の書物によれば、出家し、23歳の時に諸国遊行の旅に出たとある。訪ねる場所は辺境の地ばかり。造仏聖として活躍し始めたのは、32歳ぐらいの時といわれている。円空は自分が死ぬまでに12万体の仏像をつくる。

 

そう決意し全国を旅しながら次々と仏像を彫っていく。さて、全国遊行の旅はどこまで?1666(寛文6)年、弘前を追放されたとの記録が残っている。そこから北海道に渡り、松前をはじめとする蝦夷地を巡って布教をしたことがわかっている。

 

さらにその後、名古屋、生まれ故郷の岐阜へと至る。そして、1695(元禄8)年、この世を去った。

円空が生きた時代

円空が生きた時代は、徳川幕府がその体制を確固とした時期にあたっている。

 

将軍は徳川家光。彼は特に宗教に対して激しい弾圧を行った。

 

大きな勢力は体制に対する脅威だからだ。もともとはキリシタン勢力を抑えることを目的に「宗門人別帳」という戸口調査の制度をつくって、だれがどの宗門に属しているかを幕府は調査、管理したのである。僧侶にいたっても自由な行動は許されなかった。

 

 

円空は「造仏聖」と呼ばれたが、「聖」とは、下賤とされ、時には蔑まれる存在でもあった。

 

しかしそれは幕府が押しつけた考え方であった。徳川体制は整えられつつあったが、制度が人々の心を支配していくまでには時間がかかる。一般庶民にとっては、人が生きていく「道」をだれにでも親しみやすい話で説いてくれる聖こそが徳の高い僧であったと想像される。

円空

円空はいつも無名性の中にいる。

 

仏を彫れば彫るほど、その仏がその場所に存在し、他者を救う
つまり利他をする

 

彫刻をした人間が救われるか、人間として高まっていけるかということ、つまり自利は問題ではない。仏は仏として普遍性を持ち、いつまでもそこに存在する。

 

利他こそが円空の存在の仕方だ。円空という作仏聖が確かにいたということは分かっていても、どのような生涯を送ったのか、どんな風貌を持っていたのか、杳としてわからない。

 

本人が謎をつくったのではなく、最初からわからない存在の仕方をしたのである。

 

円空の生涯を語ろうとするとき、明らかに彼が彫った仏像はここにあるのに、円空その人が見えてこないというもどかしさがいつも漂っている。そこまで円空は自己を消し、利他に生きたということである。

 

 

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